無理して学校へ行く必要はない
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「学校へ行く必要がある」というのは洗脳であり、学校より図書館やネットの方が学習環境は優れ、自分の能力は資格や技能で証明することができる。
学校を卒業しても就職は保証されない
例えば仏教系の某新興宗教団体の信者は「先生の教えは真実であり、選挙に行くことは功徳があり、団体を脱退すると地獄に落ちる」と信じている。
しかし仏教を勉強した私から見れば、彼らの教えは仏教の教えの一部を都合よく切り取って独自に解釈したものであり、なぜ選挙で功徳が出るのか、なぜ脱退すれば地獄に落ちるのかが私には理解できない。
しかしながらこの宗教団体の信者のように、いったん洗脳してしまえばウソでも真実のように信じ込ませることができるのだ。
学校も同じで、多くの人は「教科書や学校の先生の教えは真実であり、学校へ行けば頭が良くなり、学校へ行かなければ就職できない」と信じているが、教科書検定をしているのは日本最大の右翼団体で紹介した通り、教科書は日本会議や自民党にとって都合の悪い情報をカットしており、学習環境は図書館やネットの方が優れ、そもそも日本の国公立の学校は就職訓練校ではないので、学校を卒業しても就職は保証されない。
洗脳を解くことは難しい
某新興宗教団体の信者を洗脳から解くことが難しいのと同様に、多くの人は学校へ行って時間とお金を費やしており、過去の自分の行いを否定することになるため、人々から「学校へ行かねば」という洗脳(思い込み)を解くことは難しい。
しかし、発明家のエジソンや数学者のポール・エルディシュ、物理学者のアインシュタインのように学校へほとんど行っていないにもかかわらず偉大な功績を遺した偉人もいるし、(次に紹介する)図書館やネットといった学習できる環境は日本に整っており、学校へこだわる必要はないのだ。
差別されず無料で学べるのは図書館
公立の小中学校の授業料は憲法により無料にしているが、制服やカバン、体操服といった学校指定のものを有料で買わされるため、日本の義務教育は保護者の私費負担が大きいことが特徴だ。
本来、学校側は鉛筆が買えない子どもでも、差別されることなく平等に教育が受けられる環境を作らなければならないが、完全にその義務を放棄している。
体操服を買わなければ子どもが差別され、それがいじめにつながることを学校側は容易に想像できるが、対策をしておらず、さらに修学旅行や部活動にも強制的に参加させて多額の費用を保護者に要求しており、むしろ差別を誘発している。
一方、鉛筆が買えない子どもでも、文字を読む能力さえあれば無料で学べるのは図書館である。学習する方法として人から直接聞く方法やネットで見る方法もあるが、一番効率良く、そして深く情報を知るには読書が適しており、図書館は学習環境に最も適している。
おもしろくて役立つ講義が見られるのはネット
YouTubeなどで無料の講義を実施している個人や法人は多数おり、スタンフォードやハーバードといった有名大学や、日本でも財務省などの公的機関が動画を公開している。
国公立の学校教員がどんなに適当な授業をしようと給料を減らされることもクビにもならないのとは違い、ネットでは良質なコンテンツを発信すれば収入が増えるため、当然ながらネットの講義の方がおもしろいし役立つ。
また、学校では生徒が指導者を選べないのに対して、ネット動画なら自由に指導者を選べ、役立つ講義は何度も見ることができるので、あきらかにネットのほうが学習に優れている。
学校へ行くかどうかは本人の自由
戦前、農業や漁業の手伝いをさせるために子どもを学校へ行かせない親が非常に多かったため、戦後に「親は子どもを学校へ行かせる義務を負う」という趣旨の憲法、いわゆる義務教育が制定された。
しかし学校へ行くかどうかは子ども本人の自由であり、強制的に学校へ行かせる法律や憲法は存在しない。
日本の学校教育は主に暗記力だけで個人の学力を評価しており、これをサッカーに例えると、パスやドリブル、ボールコントロールなど、あらゆる能力の中で持久力だけで選手を評価している状態である。
持久力のある選手だけを集めてもサッカーの試合で勝てる訳がなく、そして持久力だけを伸ばしてもサッカーがうまくなる訳もなく、暗記力という一部の能力で学力を測るのは本来間違っているし、暗記力だけを伸ばしても学力は上がらない。
自分のやりたい仕事に学歴が必要なら学校へ行けばいいし、必要なければ学校へ行かなくてもよいでしょう。学校へ行かなくても自分の能力は資格や技能で証明することができるからだ。